記憶の天窓

好きなものの記憶

抱えていくもの


愛し方がよくわからない、のは今に始まったことじゃないけど、ようやく自分の強欲さを自覚してきたところです。
バンドの界隈と違って直接会うこともできてしまうし、向こうが優しい故に甘えたくなってしまうから、そうなってしまうのも我ながら納得。良くないけどね。
とはいえそんなに常にワガママをぶつけてきたわけではないので、こんなにはっきりとしたワガママは初めてでした。品川後に2、3日ぐるぐるぐるぐる考えた後、家の階段を昇りながら不意に腑に落ちた気持ち。自己解決しただけでも充分だったけど、その後のDMで見せてくれた好きオタクの気持ちにまた泣いて、この気持ちを宝物のように持って歩いて行きたいと思った。形はないけど多分二丁魁のオタクであるうちは常に持ち歩いて行くのだろう。


半年以上二丁魁を好きでいて気づいたのは、私がアイドルを好きでいる上で、他のオタクへの嫉妬心というものが全くないということです。善人ぶるわけではなく、ただ私が能天気なだけ。マウントとか感じたことがなく、同推しだろうと他推しだろうと「へえ〜いいねえよかったねえ(完)」です。本当にこれだけ。
故に自分のマウントに全く自覚がない。後々、あ、これそうだったんだ…となることが多い。
嫉妬しない理由がもう一つ思い当たるのですが、こちらはマウントぽくなってしまう自覚はある。今からでも遅くないので無理な人は閉じてください。


私は推しと通じ合えている自信があります。
推しの本心とかはガン無視ですよごめんなさい。頭の悪い能天気なので。
ただ私だって推しの顔がいいだけでここまで推してきてないです。私の精神状態がやばい時に真っ先に助けてくれたのも何か言いたい時に察してくれるのも推しでした。
とはいえこういうのは誰にだってあるでしょう。私の推しに限らずオタクとその推しの間で。各々の大事な思い出。
私は単純な頭でそれらの出来事とその時の感情を信じきって推しを見ています。嫉妬しない、というか嫉妬という感情が浮かばない。あなたの思い出はあなたの。私の思い出は私の。それに及ぶものは何もない。超すこともなければ超されることもない。


しかしそれでも例の不安はある。これこそが品川後の私のもやの一かけらです。
遠くに行ってほしくない的な寂しさだろうと自分でも思っていたのですが、もちろんその割合も大きいのだけど、何かスタンスの違う感情を含んでいる気がした。


スロウハイツの神様』という辻村深月の小説を知っていますか。シェアハウスにすむ芸術家の卵たちの物語です。
その中で、エンヤという人物がシェアハウスを出て行くことになり、その家の大家であり若くして有名脚本家になりつつある、要はその家の中の芸術家の中のトップ(では本当はないのだけど)の環に呼びかけるシーンがあります。家の下から、3階の環の部屋に向かって。エンヤは自らの思いを一生懸命ぶつけるのですが、環はそれに全部「聞こえない」と返す。閉められる窓。


こういう感じです。いや聞こえてるだろ、て物理的な問題ではなく。
たとえ社会的に成長しても声は届かない。追いつけるわけがない。
物理的にだって届かなくなる。
本当は理想論は嫌いだけどミキちゃんの言う奇跡を信じたいと思った。でも信じきれなかった。


だったら、せめて忘れないでいてほしかった。
環だってエンヤが追いつけるとは思わなくてもエンヤの存在を忘れたわけじゃない。
あなたが好きな私という末端の人間がいたことを忘れないでほしかった。
初めての明確な強欲なワガママ。

 

推しの顔を今だに忘れない。
言い逃げして立ち去る時に聞いた推しの返事を、やっぱり私はこの先もずっと宝物みたいに抱えていくんだ。